老犬とポラロイド

いつまでも続いてほしい、でも決して長くはない、老いゆく愛犬との大切な日々。

<25> 耳はもう聞こえない

 マイン16歳5ヶ月。耳はもう聞こえない。

 でも、それがいつからなのか、情けないことに、飼い主の私はよくわかっていない。昨年、15歳を過ぎたところでヘルニアになるまでは、よく聞こえていたはずだ。玄関のチャイムには吠えていたし(家の中では吠えない子だが、玄関のチャイムだけには反応していた)、その頃はまだよく来てくれていた彼が玄関の鍵をカチャと開ける音がしたら、いそいそと迎えにいった。

 ヘルニアを発症した時、「ケージで絶対に安静」と言われたが、「ケージなんて持ってないし、どうしよう」などというのは取り越し苦労で、マインはずっとおとなしくしていた。そして、それからも歯周病がひどくなったりして、なんとなく調子の悪そうな時期が続いた。寝ていることが多く、起きてもぼんやりしていた。

 音に反応しなくなったのはおそらくこの頃だが、それでも「しんどいんだな」くらいにしか思っていなかった。目は「白くなってきたかな」などと気にしていたが、耳についてはなんとなく油断していた。

 その後、H先生の鍼灸治療を受けるようになったり、歯磨きができるようになったりして、全体的に調子がよくなってきたように見えても、かつてのように音に反応するようにはならなかった。私が外出先から帰っても、出てこなくなった。

 声でコミュニケーションがとれないのは、思っていた以上にきつかった。

 それほど特別なコマンドを教え込んだわけではないが、「おすわり」「ふせ」「お手」「おかわり」「待て」「よし」「だめ」くらいはわかっていた。特に「待て」はよくできて、ごはんを前にぷるぷるしながらでも、「よし」と言われるまでが我慢できた。しつけの本によく書いてある「上下関係の確認」などのためではなかったが、こういったことが一日のメリハリになっていたのはたしかだった。

 「待て」「よし」ができないのは、散歩の時も困った。今でも調子が良くて走りたい時は横断歩道にさしかかってもそのまま行きたがるのだが、信号が赤でも言葉で止められない。それに、いざ何か危ないことがあった時、「待て」「だめ」と叫んでも役に立たない。これはこわい。

 歯磨きなどのケアを嫌がるのも、声が聞こえなくなったことが関係しているかもしれない。声で安心させるということができないのだ。

 犬は耳が聞こえなくなったことをどのように感じているのだろう。聞こえていた頃との違いはわかっているのだろうか。音の記憶はあるのだろうか。私の声は覚えているのだろうか。それが聞こえなくなったのはどういう気持ちなのだろう。

 ごはんの時の習慣だった「待て」と「よし」。おそらく、それがどちらもなく、ただ目の前にごはんが差し出される状況に、マインが戸惑っていた時期があった。最近でこそ、老犬力がまさってきたのか、目の前に出てきたらすぐ食べるが、一時期は「食べていいのかな」といつまでも困ったようにしていた。「どうして何も言ってくれないのだろう」と思っていたのではないだろうか。

 それでも、耳が聞こえないらしいことに気がついてから、私は一層、マインに話しかけるようになった。話す時はマインのそばに行って、頭に口をつけるようにして話す。骨伝導とかで伝わらないかなと根拠のない期待をかける。散歩中に抱っこをしている時もよくやっているので、はたから見たらかなり怪しい人にちがいない。

 それでも先日、仕事がらみですごく腹が立ったことがあって(怒ると疲れるのがわかっているので怒ることは滅多にないのだけれど)、いろいろなことを考えているとたまらなくなって、自分の机をバンと叩いてしまった。すると、同じ部屋の中にいたマインがびっくりして怯えたように顔を上げた。聞こえたのか。

 「まちゃんのことじゃないよ、ちがうからね」とあわてて床に腹ばいになって謝ったが(何しろ相手はダックスで、しかも下を向きがちな老犬である。こうしなければ顔を覗き込むことができない)、マインは目も合わせてくれない。どうして負の力ってこんなに簡単に伝わるのだろう。大事に積み上げてきたものをぶち壊すような勢いで。

 でも、ふと思った。机を叩いた音が聞こえるなら、思い切り大きな声で呼んだら聞こえるのだろうか。聞こえていた頃、マインは呼んだら顔を上げて、首をかしげるのが癖だった。その仕草が見たくて、用事もないのに何度も名前を呼んだものだ。

 でも、やめておいた方がよさそうだ。気がつかなかったら、どこまでも声を張り上げそうな気がする。

 また頭に口をつけて話し続けよう。少しは伝わってるよね、まちゃん。時々、うっとうしそうにするけど、そんな顔もお母さんは好きだよ。尊い一生をずっと見させてくれているんだなとつくづく思う。

 

 

 

 

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